憧れの“父の分厚い財布”は幻想だった?!
先代の急逝で社長就任の試練。「おいしく安全」を徹底し「もったいない」をなくしたい。
(株)サン食品
代表取締役
飯沼雅浩氏 (京都)

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1968年(昭和43年)に創業された父親の事業の2代目として「おいしく安全」を掲げ、品質に妥協しない商品づくりを徹底してきたサン食品の飯沼雅浩社長。日本料理の伝統が受け継がれる京都の地で、業務用魚類の切り身や焼き物、加工食品の卸業を営むと同時に、SDGs活動にも注力。若者にフードロスの働きかけをし、地域への社会貢献活動も行っています。一方で、重篤な病に見舞われた創業者の父親に病気の告知ができず、経営のイロハを教わる機会がなかったという、息子で後継者という立場ならではの苦労もあるそうです。強面だと良く言われるそうですが、実は笑顔がステキで気さくな飯沼社長。後継者人生の酸っぱさと甘さ、そして譲れない信念についてお話を伺いました。


弁当屋への切り身納品から、京都の料亭開拓へ

マリコロ編集長:サン食品さんの前身はお父様が立ち上げられたのですよね。聞いていらっしゃる範囲で創業当時のことを教えていただけますか。

飯沼:父親が1968年に「飯沼商店」という屋号で創業しました。当時は小売業がメインで、裏の調理場の一角で鮮魚を加工していました。そこが現在の切り身ビジネスの出発点です。

マリコロ:どのようにビジネスを拡大されてきたのでしょうか。

飯沼:最初は近所の弁当屋に魚の切り身を納品していました。その後、野菜や鮮魚を扱うスーパーを開業し、ご近所さんから重宝してもらいました。当時はコンビニもありませんでしたから。切り身業も好調でしたので、スーパーの一部分を加工場として活用するようになり、その後は弁当屋からの引き合いも増えてきたため、加工業に絞ってさまざまな地域の弁当屋に営業をかけながら仕事を獲得していきました。

マリコロ:当時どんなことに苦労されましたか。

飯沼:人件費が安い中国からの切り身輸入が、弁当屋ビジネスのライバルになったのです。中国からの切り身は形が不揃いだったのですが価格の安さには勝てず、徐々に弁当屋からの仕事がなくなっていきました。この状況に対抗するため料亭にシフトし、先方の望む商品に対応することにより徐々に納品先として料亭が増えていきました。

「おいしく安全」の徹底に至るまで

マリコロ:料亭からの依頼に対応することで、現在のベースとなる事業が整っていったということでしょうか。

飯沼:そうですね。料亭からは、切り身以外にも「味噌漬けにしてほしい」「焼いてほしい」など、次々とオーダーが入りました。そこで、今の工場を設立し焼き場を作り対応していきました。実は、それまでお付き合いしていた業者さんの工場に行ったとき、衝撃的な光景を見てしまいまして。工場の従業員が自分たちの作った弁当を食べないのです。理由を聞くと「工場が汚いから食べたくない」との返答で。確かに焼く機械はボロボロで、網も油まみれでした。

マリコロ:現在理念として掲げられている「おいしく安全」はこの体験がきっかけになっているのですか。

飯沼:はい。まさにその時の体験が、現在の企業理念につながっています。自分たちが食べたくないものを売ってはいけないと強く思い、従業員にも譲れないこととして伝えました。清掃や衛生管理を徹底し、今の工場は20年目ですが網もピカピカの状態です。業者や百貨店の品質管理の人も見学に来ると「うちも見習わないと」と驚かれています。今は時代が追いつき「おいしく安全」が尊重されるようになったので、会社が生き残る理由につながっていると思います。

「おいしく安全」のため衛生管理が徹底されています

経営者ノウハウを引き継げず、先代が急逝

マリコロ:“後継者”に質問の観点を変えますが、いつ頃から次期社長と意識されたのでしょうか。

飯沼:高校生の頃、父親はお金が減らない“魔法の財布”を持っているんだと思っていました。いつも財布の中身が分厚かったので。(笑) 最初は単純に、そんな便利な財布が手に入るなら後を継ぐのも悪くないなと思ったのがきっかけです。 大人になって家業を手伝うようになってからは、個人名義で事業を運営する危うさに気が付き、あの財布は幻想だったとわかりましたけどね。

マリコロ:後継者の甘味がきっかけではあったものの、同時に酸っぱさも見抜かれていたのですね。お父様とのエピソードを聞かせていただけますか。

飯沼:しばらく一緒に仕事をしていたのですが、父親の病気が判明し余命宣告を受けました。父親は「まだできる」「自分の会社だ」という意識が強かったため、余命は最後まで父親には告げられませんでした。自分としては取引先の情報や経営ノウハウを知りたかったのですが、尋ねることはできず。その後、1年も経たないうちに父親が亡くなり、何も分からないまま後を継ぐことになってしまったんです。

半信半疑で参加した経営塾で理念が固まる

マリコロ:経営状況を知らないまま社長になるなんて、試練ですね。

飯沼:帳簿を見ながら状況を調べる日々でした。そんな中、ある半年間の経営塾に参加することになりまして。最初の3ヶ月間は半信半疑でしたが、4ヶ月目の合宿で参加者から「何のために生まれてきたのか」など、さまざまな質問を受けました。自分としてはそれぞれ違う返答をしているつもりでしたが、「色々な人を巻き込む」「地域に貢献する」と、全部同じことを答えていると指摘を受けたのです。

マリコロ:自ら気付くように周りから促されていたということですか。

飯沼:はい。この2つを経営理念に入れ込み言語化しました。理念を社内で発表したあとは従業員一人一人と面談しましたが、会社への熱い思いを持っている従業員ばかりで嬉しかったです。

マリコロ:ところで、社長就任後に感じていらっしゃる後継者の“酸っぱい味”はあるのでしょうか。

飯沼:自分が代表取締役に就任後は、弟と妹夫妻も経営に参画しています。ときには期待の高さによるすれ違いなど、家族経営ならではの問題も起きますね。元々は兄弟3人で3つの会社を作ろうという目標から始まっているので、もっと積極的に動いてほしいというジレンマを感じることもあります。それでも、周囲を巻き込むことが経営ポリシーでもありますから話し合ってやっていきたいと思っています。

左から弟の伸幸専務、飯沼社長、義理の弟の宮下常務です!

SDGsの推進!もったいないを若者のアタリマエに

マリコロ:切り身を主体にしつつ事業の多角化を進められていると思いますが、どのように変化してきたのでしょうか。

飯沼:コロナ渦をきっかけにネット通販にも力を入れてきました。地元映画館でのCMやラジオ放送なども始めました。周囲からは賛否両論ありますが、何事もやってみないと分かりませんので、楽しんでやっています。

マリコロ:新しい取り組みといえばSDGs の推進にも力を入れていますね。何がきっかけで始められたのですか。

飯沼:きっかけは、インターン学生が「ご飯を残したらもったいない。食品を粗末にするとバチがあたるよ」と私が言った言葉にキョトンとしていたことです。若い世代は、食品ロスについて家庭で教わっていないことが多いんですよね。そこで社長チップス!が主催している「全国高校生SDGs選手権」に参加し、今では京都の先端科学大学附属高校(京都学園高校)と協働しながら「SDGs飯コンテスト」などを開催しています。

SDGsの取り組みとして、小学生の工場見学受け入れや社長チップス!主催の高校生SDGs選手権に参加されています

また、新卒社員やネパールなどアジア圏からの若い技能生も受け入れ、刺激をもらっています。「もっと人が集まるホームページにしたほうが良い」「“伝統の西京漬けを守る”というコンセプトがいいのでは」など、斬新なアイデアが出てくるので驚きます。

企業とともに地域活性化を京都の地から

マリコロ:後継者ならではの良かった点をお聞かせいただきたいです。

飯沼:後継者は先代が作ったベースがあるからこそ「すぐ事業ができる」ことが最大の利点だと思います。土台(ベース)があるからこそ、ラジオ番組での発信など「面白い」と思った分野に挑戦することができます。自分で登る山を決められる良さはあるものの、同時に下山しない覚悟も必要になりますけどね。

マリコロ:新卒社員や技能生が活躍されているというお話がありましたが、未来をともにつくっていく若者へのメッセージもお願いします。

飯沼:自分だけでなく、未来のそのまた未来の子に向けての目線を大事にしてほしいです。疲れたサラリーマンの背中を見せてしまうと、子供は「仕事は楽しくないもの」と思ってしまいます。夢を見るのは自由、挑戦をやめてしまえばゼロになってしまうものの、続けている以上は失敗とはなりません。誰かに迷惑をかけないのであれば、可能性を模索し続けてほしいと思います。

マリコロ:最後に、飯沼社長の夢をお聞かせください。

飯沼:地元と地域を巻き込み、地元から京都市、関西、日本へと広がっていくような取り組みをしたいです。今は地域と企業が連携できていないため赤字続きで、このままでは京都市がなくなるかもしれません。市ではなく、日本の会社の9割を占める中小企業と市が手を繋ぎ、新しい形の地域活性化を京都の地から推進していきたいです。

配達トラックに乗った最高の笑顔いただきました!