雪山の丼ぶり屋で経営を学びスノーリゾート再生へ夢をかける。元スキー選手が事業で成功するロールモデルとして背中を見せたい。
(株)HEIDI
代表取締役
皆川賢太郎氏 【後編】(新潟)

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3歳からスキーを始め、2006年のトリノオリンピックではアルペンスキーで4位入賞を果たした皆川賢太郎社長。輝かしい表舞台の裏側には、怪我と向き合う過酷な日々がありました。引退後の、スキー界への貢献とビジネスパーソンとしての活躍には、各方面から注目が集まります。世界を股にかけて戦い、プレッシャーを乗り越えた皆川社長が経営を通して叶えたい夢、伝えたいメッセージとは。
チャレンジするすべての人に勇気を与え、強靭なメンタルをもつ社長の思考に迫る連載【社長のコンソメンタル】後編では、元スキー選手としての経歴を持ちながら経営者として活躍するその思いに迫ります。

スキー選手と丼ぶり屋経営者の二刀流

マリコロ編集長:スキー選手として活動しながら事業を始めるまでには、どのようなきっかけがあったのですか。

皆川社長:僕の地元である苗場プリンスホテルの元オーナーの堤義明さんに紹介してもらったことが始まりです。苗場で堤さんとフォーシーズの浅野さんの3人でたまたま会う機会があって。その時、堤さんが「皆川はこのままだとスポーツ馬鹿になるから、浅野君の店を1個あげてよ」と言ったんです。堤さんにそう言われたら、浅野さんも何も言い返せないじゃないですか。そんな軽いノリで、スキー選手から突然経営者になってしまったというわけです。

マリコロ:どんな飲食店だったのですか。

皆川:苗場スキー場のフードコート一角にある丼ぶり屋です。始めてみて一番驚いたことは、飲食店の利益率がいかに低いかということ。スポーツ選手の契約金は1000万円だとしたらすべてが純利益になりますが、丼ぶり屋は売り上げ1000万円でも経費を差し引いたら100万円くらいしか残りません。びっくりするくらい儲からない!と衝撃を受けて…。選手をやっている方がよっぽど良いと思いましたね。

マリコロ:店舗の経営にあたりご苦労はありましたか。

皆川:フランチャイズなので多少フォーマットはありましたが、何もかもが手探り状態。僕にノウハウがあるわけでもないし、とにかく大変でした。周りからも「スキー選手が何やってるんだ」と言われることがありましたが、スキーに対しては真剣に向き合っていましたので周囲の声は気にしていませんでした。スポーツ選手が1日のうちに運動できる時間は8時間が限界ですから、睡眠と練習以外の時間を経営に充てればいいと考えていました。そこから景色が少しずつ変わっていったような気がしますね。当時、そんなことやっている選手は僕以外いませんでしたけど。

マリコロ:その丼ぶり屋さんの経営がきっかけで、後に事業を拡大することになったのですね。

皆川:はい。ビジネスを始めた理由は2つあり、1つはお金。僕は生涯ずっと現役でいたかったので、自分で活動費を工面できれば、スポンサーがいなくなっても選手を続けられると考えました。もう1つは冬季産業に身を置きたいと思っていたことです。スキー場という自分の身近な環境で新しいことに挑戦したいという夢が以前からありました。

スキー場をリゾートとして再生させる夢

マリコロ:スキー場というよりスノーリゾートという観光地として考えるということでしょうか。

皆川:そうですね。スキー場をリゾートとして再生させることを意識していました。僕自身も、スキー場に滞在する時に、おいしいお店など魅力的なコンテンツがないと嫌ですし。海外のスキーリゾートは古くからその街に根付いた文化の一つという印象がありますが、日本のスキー場はどちらかといえばテーマパークに近い。海外のようなスノーリゾートへ再生させたいと思っていました。

マリコロ:引退後は、2015年に全日本スキー連盟の理事に就任され、2020年の「FISアルペンスキーワールドカップにいがた湯沢苗場大会」の開催に尽力されたこともありますね。

皆川:堤さんから「苗場にワールドカップを誘致しなさい」というミッションを課せられたのがきっかけです。実行委員会副委員長として誘致に関わりました。同時にスキー連盟の理事を5年間続け、財務バランスを見直し収入は8億から14億へ増収、北京オリンピックでの成績をみても一定の役割は果たしたと思っています。ただ正直、僕はこの組織が苦手で…。体制が古臭くて汚職も多い。そんな体質が嫌いで全部変えてやると思っていたんです。しかしながら、古参メンバーはそんな僕を気に入るはずがなく、結局辞めることになりました。
本来やりたかったことはスノー産業であり、スキー連盟に入ることではなかったので、一つの役目を終えたということで、自分のビジネスに全力投球することになりました。

マリコロ:現在関わられている主なスノーリゾートは、新潟の苗場と岩手の安比高原スキー場ですね。苗場は地元だと思いますが、安比高原を選んだのはなぜでしょうか。

皆川:ゴンドラやリフトは定期的に架け替えが必要なのですが、安比高原ならばスキー場全体のルール設計から携われることが選んだ決め手です。安比は自由な発想で手がけられることに魅力を感じました。現在ゴンドラの架け替えを構想中で、商業施設の新設も計画中です。さらに山のもう半分側の開発を行う可能性もあります。

マリコロ:蜷川実花さんデザインのこちらのゴンドラもすごく素敵ですね。鮮やかな世界観は目を見張るほどです。

皆川:ありがとうございます。スキー場の設備はどこも古くなるばかりですが、それらを別の角度で変換できるのがアートだと思っていて。夏に向けてインスタレーションを増やしていく予定です。お客さんには山頂から雲海とアートを一緒に楽しんでほしいですね。

スキー選手の新たなセカンドキャリアを提示

マリコロ:冬以外の季節でも収益が上がるモデルをお考えなのですか。

皆川:その通りです。現在は、通年にわたりお客さんに来てもらえるコンテンツ開発に注力しています。スキー以外で、リフトやゴンドラをどう活用していくか試行錯誤している状況です。

マリコロ:地球温暖化やスキー人口の減少によって、冬季産業は縮小傾向にあると聞きます。どのように盛り上げていきたいとお考えでしょうか。

皆川:まず海外のお客さんに来てもらうことが第一ですね。日本は良質な雪が降る大変恵まれた立地。中国側から冷気が流れると、日本海の上に雲ができ、その雲が山脈にあたることで良質なパウダースノーが降るんです。これは地球上の中でも稀有な環境。外国人からも大好評で、雪目当てでわざわざ来日する人もいるほどです。

山頂のゴンドラ降り場に併設されたギャラリーカフェにて。蜷川実花さんの鮮やかなアート作品がこちらにも展示されています。

この雪の価値を見直し、保全や活用を考えるべく、2021年に財団「一般財団法人冬季産業再生機構」も立ち上げました。温暖化は自分たちだけでは止められませんが、誰かが言い続けなければ変わることもない。少なくとも雪で商売させてもらっている僕たちは行動すべきだと考えています。

マリコロ:スキー選手育成にも尽力されていますが、次世代に伝えたいことはありますか。

皆川:僕が行なっている冬季産業での取り組みをスポーツ選手のセカンドキャリアのロールモデルの1つにしてもらいたいです。これまではスキー選手やスノーボード選手は引退後、大学やスクールの先生になるか、芸能人になるかのどちらかでした。せっかくならアスリートとして見てきた様々な景色を生かしてスノービジネスに貢献するのが理想と僕は考えています。新たなセカンドキャリアを背中で示せていると思うので、参考にしてもらえれば嬉しいですね。

経営者としてずるい選択をしない父の教え

マリコロ:皆川社長が経営者として手腕を発揮している背景には、お父様がペンションを経営されてきたことが影響していると思われますか。

皆川:多少はありますね。小さな宿泊施設でしたが、働くことでお客さんからお金を貰うという原理は自然と身についていたと思います。僕が子供の頃の苗場は兎にも角にもバブル絶頂期。お金持ちがたくさんいて、ビジネスの煌びやかさを感じられるエリアにいたことは、ある意味貴重でした。

マリコロ:お父様から引き継がれている経営者としての教えはあるのでしょうか。

皆川:「ずるい選択をしないこと」ですね。幼い頃から父に何度も言われた言葉です。この「ずるい」には色々な意味がありますが、とにかくずるい選択をしたら絶対に一流にはなれないと毎日のように言われていました。この教えは今でも大事にしています。

マリコロ:一流かそうでないかの分岐点に「ずるい選択」があるというのは、次世代にとって大きな学びになりそうです。
最後に社長としての今後の展望、事業を通して実現したい夢を教えてください。

皆川:ただのペンションの息子だった僕ですが、スキーに出会えたことで好きなことを仕事にさせてもらえました。今後はもっと地元の苗場に恩返ししていきたいです。冬季産業を生きる場所と決めたので、今後も雪資源を活用した事業を広げていきたいですし、雪山での取り組みを次世代につなげていくのが僕の使命であり、夢でもあると思っています。