アルペンスキー100分の1秒、磨いた極限の集中力。周囲を裏切ってやると奮い立たせオリンピックへ。栄光と挫折の競技生活。
(株)HEIDI
代表取締役
皆川賢太郎氏【前編】(新潟)

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アルペンスキーで1998年長野大会からオリンピックに4回連続出場し、引退後は実業家として活躍中の皆川賢太郎社長。スノーリゾートの再生に乗り出す傍ら、2021年には冬季産業再生機構を設立するなど、冬季産業とスポーツ産業の発展に尽力しています。日本のアルペンスキー界に多大な功績を残し、マネジメントとしての手腕を発揮する元アスリートの精神力とは?チャレンジするすべての人に勇気を与え、強靭なメンタルをもつ社長の思考に迫る連載【社長のコンソメンタル】前編では、皆川社長の幼少期から現役時代に迫ります。

皆川社長が再生に力を入れる岩手県・安比高原スキー場にお邪魔しました!

家のドア開ければスキー場、小学5年でオリンピックを目指す

マリコロ編集長:新潟・湯沢ご出身とのことでスキー場が身近な環境だったとは思いますが、何歳からスキーを始められたのですか。

皆川:3歳ぐらいですね。父がもともと競輪選手で、引退後のセカンドキャリアとして苗場でペンションを営んでいて、そこに生まれたのが僕でした。家のドアを開けるとスキー場という環境で、物心ついた頃にはスキーに親しみ、競技を始めたのは小学4年の時からです。

マリコロ:アルペンスキーのスピード感は半端じゃないですよね、恐怖心を感じたことはありませんか。

皆川:全くないです。むしろ楽しくて仕方がなかった。ちなみにアルペンスキーは4種目競技があって、速い順からダウンヒル、スーパー大回転、大回転、回転となります。回転は他と比べるとスピードが遅いものの、最も技術が求められます。僕が回転を選んだのもそれが理由ですね。

皆川社長の完璧な滑りを至近距離で見せていただき大興奮です!!

マリコロ:技術以外ではどのような力が求められるのですか。

皆川:集中力ですね。アルペンスキーは1分間くらいのレースで、100分の1秒までカウントされます。つまりほんの僅かな差で勝敗が決まってしまうのです。1分という超短期勝負なので、極限まで集中力を磨かなければいけない。回転ではここが非常に大事なポイントですね。

マリコロ:トリノオリンピックでは、まさに100分の3秒差というほんの僅かな差で4位という結果だったんですよね。

皆川:そうですね。本当に残念でしたが、僕としては人にジャッジされるより、タイムで競う方が性に合っていました。例えば審査員が5人いたとして、評価点数がバラバラだったらきっと納得いかないかと。アルペンスキーは速い人が勝ちという竹を割ったように潔い種目だったからこそ、のめり込めたと思います。

マリコロ:スキーで生きると決めたのは何歳くらいになるのですか。

皆川:おそらく小学4年生ですね。地元新聞のインタビューを受けていたようで「オリンピック選手になります」と話していたそうです。今でも実家の柱にその記事が貼られています。僕自身はインタビューの記憶がないのですが、その頃からすでに人生のレールを敷き始めていたのでしょうね。

マリコロ:小学校の下校時、友達の背中がたくさん見える道はあえて選ばず別の道から帰宅していたそうですね。

実は3歳からスキーに親しんでいた編集長。10数年ぶり?!ではありましたが、皆川社長に教えていただきながら標高1304mの最上部まで上がり滑らせていただきました!これ以上ない晴天!アスピリンスノーと呼ばれるサラサラした滑りやすい雪質。安比高原の気持ちよさが感じられます!

皆川:そうですね。 他のみんなは本屋やCDショップに行っていてとても楽しそうでした。うらやましいなと思うこともありましたが、自分は練習に打ち込み誘惑に負けないことで「きっと人生は大きく変わる」と信じていました。

マリコロ:オリンピックでライバルとなった選手とは、子供の頃からすでに出会っていたそうですね。

皆川:小学5年生からヨーロッパ遠征に参加し始めましたが、オーストリアのベンジャミン・ライヒと、ライナー・シェーンフェルダーにはそこで出会っています。彼らの滑りはとにかく速くて「なんだ、こいつらは!」と衝撃を覚えました。それまで日本では自分より速い選手がいなかったので、ショックは相当大きかったですね。そのとき「彼らとはいつかオリンピックで戦う」というベンチマークができたわけです。

マリコロ:小学5年生で目標が定まったのですね。

皆川:そうですね。彼らの存在があったからこそ、中学に入ってからも頑張れたと思います。トリノオリンピックで戦うことになり、金メダリストがベンジャミン・ライヒで、3位がシェーンフェルダー・ライナー。僕はメダルを逃しましたが、彼らという存在が僕を変えてくれたと確信しています。

勝てるのは一人だけ、周りの大人は世界なんて無理だよと

マリコロ:社長の精神力についての連載なので伺いたいのですが、競技に向き合う中で、心が折れたこと、挫折を経験したことはありましたか。

皆川:当然ありますよ。どのスポーツの大会でも1番は1人しかいません。つまり負け試合の方が圧倒的に多いということです。ある大会で優勝しても、来週にはまた違う大会があるので喜べるのは1週間だけ。だからこそ一喜一憂しないように意識していました。

マリコロ:ご自身の感覚を伺いたいのですが、皆川社長が結果を出せたのは努力されたことはもちろんだと思いますが、元々の才能が影響していると思われますか。また周囲からはどのような言葉をかけられていたか、教えてください。

皆川:僕は自分に才能があるとは思っていませんでした。とにかくいつも「スキー選手になる」と自分に言い聞かせ、ひたすら練習する毎日でしたから。ちなみに僕は地元では速い子でしたが、特に身長に恵まれたわけではなく、周りの大人からは「ワールドカップなんて無理だよ」と言われていました。中には「頑張れよ」と声をかけてくれた人もいましたが、子供ながら社交辞令とわかっていましたね。「そんな周囲の評価を絶対に裏切ってやる!」と自分を奮い立たせることで、記録が伸びていったのだと思います。

マリコロ:周りの大人たちがみな応援してくれたわけではなかった。でもそのことが逆に、皆川社長の闘志に火をつけたのですね。

皆川:はい。僕の周りの大人は大体が「スポーツなんてやってどうすんだ」というスタンスでした。それには、スポーツはいつか辞める時が来て、どのみちセカンドキャリアを歩むことになるから意味がないというニュアンスでしょう。たしかに「このまま続けていて大丈夫だろうか」と思う瞬間はありましたが、ある程度年を重ねるうちに、人生の選択は間違っていなかったと確信できました。

実力を過信していた20代、人として一流ではなかった

マリコロ:語弊を恐れずに言わせていただきますと、ライバルが日本にいなかったことで「調子に乗ってしまう」というような経験はなかったのでしょうか。

皆川:ありました(笑)。長野オリンピック後には、自分の時代が来る!と信じていましたし。20歳から一気に駆け上がってトップまで登り詰めたので、僕の時代が永遠に続くと本気で思っていました。完全に調子に乗っていたわけですね。とあるメーカーと契約交渉をした時、提示された1500万円という金額に納得がいかず「安い、やり直し!」と投げ返したこともありましたし。

未来のスキー選手となるかもしれないたくさんの子どもたちが、スキー教室に参加していましたよ。

マリコロ:ドラマみたいなシーンですね。

皆川:いやー間違いなくそのメーカーの人は「コノヤロー」と思ったはずです。何年か後、別の契約交渉でその人に再会することになったとき「あれ、皆川君って、まだスキーやっているんだね」と言われてしまいました。過去の自分を思い出し「恥ずかしい態度をとっていたな」と反省しました。成績は一流でも、僕自身が人として一流ではなかったと。

ケガがターニングポイント、自分を取り戻す

マリコロ:成績面ではいかがですか。どうやっても記録が出ない時期などはありましたか。

皆川:2回ほど大ケガをしたんですが、どちらも回復まで時間がかかり、本当に辛い時期でしたね。ベッドの上で「もうダメかもな」と思い、毎日ネガティブな気持ちだったことを覚えています。

それまで僕はかなり自分に過信していました。何か上手くいかないことがあると道具やスポンサーが悪いとか、責任を自分以外のせいにして。でもケガをしたことで、そんな自分が間違っていたと気づきました。

マリコロ:ケガをきっかけに良い方に変われたということですか。

皆川:そうですね。全く歩けなかったので「皆川は引退だ」など色々噂されましたし、松葉杖で契約交渉に行くと「まだ契約していましたっけ」と言われたりしました。とはいえ世界ランキングはまだ8番くらいで、次の大会で結果を出せばオセロのようにひっくり返せると考え、能動的に生きるべきだと心を入れ替えました。そこから徹底的にトレーニングすると決意し迎えたのがトリノオリンピックです。メダルは取れませんでしたが、間違いなく自分の人生のターニングポイントだったと言えます。

全21コース、初心者も上級者も、友達同士でも家族連れでも楽しめる東北屈指のビッグゲレンデを背景に。

皆川社長のコンソメンタルは【後編】に続きます。後編では、アルペンスキー選手として、また起業家としてのメンタルの持ち方、考え方について詳しく紐解いていきます。